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「連綿と続くアートの歴史の一部を作りたい」3DCGアニメーターチームリーダーが語る仕事の矜持

みなさんこんにちは、チームラボ採用担当です。
今回は、チームラボ3DCGアニメーターチームのメンバーがデジタルハリウッド校友会様のインタビューを受けた記事が公開されたので、その転載になります。
3DCGアニメーターチーム発足時の話や、自身のバックグラウンド、仕事観などについてお話させていただきました。

ぜひご覧ください!

寺尾 実  (Terao Minoru) / 3DCGアニメーターチームリーダー
東京都出身。映像とCGの専門学校を卒業後、デザイン事務所に3年間勤務した後、1999年、デジタルハリウッドU.S.A.校(dhima通称ディーマ:Digital Hollywood Institute of Media Arts) CG映像専攻に入学。卒業後、帰国し、アニメーションスタジオに入社。6年間、3DCGアニメーターとして劇場アニメーション作品などの映像製作を経て、2009年チームラボ入社。以来、アート、ミュージアム、エンタテインメント、空間演出まで、様々な映像作品制作とクオリティ管理責任を担っている。


メインはアート制作とクオリティレビュー

──現在のチームラボでの寺尾さんの仕事・役割について教えてください。
近年、麻布台ヒルズのチームラボボーダレスを筆頭に、チームラボのアートミュージアムが世界各地で作られています。各ミュージアム内に展示している作品群は質量のない、光で表現しているものばかりです。その中で3DCGを用いたアート作品の制作およびディレクションが、僕のメインの仕事です。どういった新作をつくるかというところから関わりディレクションを担当しています。ボーダレスのような大型ミュージアムでは沢山の作品が集結しているので、個々の作品担当者と共に調整して最終的なクオリティレビューを担当しています。

チームラボは様々なスペシャリストがチームとなり一つの大規模ミュージアムを制作しています。オープンに向けて、個人の努力がチームの成果になり、その集結が一つの作品になっているんです。毎回カオス状態で作品が集結して展覧会が始まるような感じです。

今年もいくつかのミュージアムがオープンする予定で、それに向けて各作品制作を日々進めています。海外の展覧会場も増えているので、海外出張にもよく行っています。先日もサウジアラビアでボーダレスのインストールを終えてきたところです。

10代でクリエイターを志す

──寺尾さんがチームラボで仕事をするようになった経緯を教えてください。まず、クリエイターを目指したきっかけは?

子どもの頃からものを作ることが好きでアイデアを形にするのが得意でした。小さい頃に大人と交流する機会が多かったこともあってエンターテインメントを周りの子より早いうちから親しんでいたと思います。初めて購入したのはBand Aidの12インチアナログでスターミュージシャンがチャリティーの為に集まり、皆で一曲作るMVに感銘を受けたことを覚えてます。中学生になるとさらに洋画・洋楽にどっぷりハマり、毎日録画したMTVを擦り切れるくらい見たり、ターンテーブルでMIXテープ作ったりしていました。アメリカ西海岸のファッションやストリートカルチャーが好きだったので、毎日どこに行くにもスケートボードで行っていました。

高校時代、将来どんな仕事をしようかと考えた時、まず、毎日学校に行くのが苦手だったので、いわゆるサラリーマンには向いてないなと思いました。ならば、好きなことを仕事にしようと、子どもの頃から大好きだったものづくりと洋楽の両方に関われるMV(ミュージックビデオ)を作る仕事がしたいと思ったんです。それで、高校卒業後はCGと映像が学べる専門学校に入学しました。

学校にはシリコングラフィックスのワークステーションもあるような環境で、メインツールはMacでしたが、Amigaも使っていました。入学後はまさに水を得た魚のように、一日中CGを作ったり、実写を撮影したり、合成したりと、毎日創作活動に没頭していました。人生初の動画作品も作ったのもこの頃です。

1995年当時、公開された『攻殻機動隊』や『Memories』、翌年に『Extra』を見た時は、アニメなのにCGを駆使した斬新な表現に大きな衝撃を受けました。ジャパニメーションと言われた革命的な作品でした。これまでにない作画とCGが融合した優れた作品の影響もあり、将来は自らCGも作れるMVの監督になろうと決めたんです。

CG力の強化とアメリカで働く夢を抱いてdhimaに

──専門学校を卒業した後は?
とにかくすぐ実戦でスキルを身に着けたかったので、デジタルのデザイン会社に入社しました。当時はまだ珍しかった3DCGを駆使して映像やデジタルメディアなどのデザインの仕事をしていました。手掛けていたのは、音楽レーベルやアパレルの広告映像や、テレビ、MVなどちょいおしゃれな感じの仕事でした。メジャーアーティストの作品を作ったこともあります。提案から制作、納品まで僕とアシスタントで作るような小規模でスピーディーな仕事ばかりでした。

仕事場が渋谷だったこともあり、遊ぶ場所には困らなくて、プライベートも楽しく、公私ともにとても充実していました。でも、心のどこかでもっと真剣にものづくりに打ち込んで、映像クリエイターとしての実力を高めたいという思いを抱えてモヤモヤしていました。

ちょうどその頃、スターウォーズの新三部作をルーカス監督が鋭意製作中という情報が入ってきたんです。もともとルーカスとILMのものづくりの思想が好きで、作品もよく見ていたので強く憧れていました。ルーカスは、新しい三部作はCG技術が進歩して初めて製作が可能になると言ってたので、凄い作品を作ってるのではないかと予想して、自分もCGを頑張ってより高いスキルを身につければ、三部作の製作にジョインできるかも……と思いました。その時は夢に近い感じだったのですが、夢は大きい方が成長できると思ったのです。

そんなことを考えていた時、よく読んでいたCG雑誌の広告でdhima(デジタルハリウッドU.S.A.校=Digital Hollywood Institute of Media Arts)の存在を知りました。dhimaのあるアメリカ西海岸には、音楽、映画、エンターテイメント、スケートボード、ストリートカルチャー、現代アートまで、僕が追い求めてきた仕事も趣味も生活も全部そろっている。だからCG技術の強化と西海岸のCGプロダクションで働くという夢を抱き、1999年4月、会社を退職し、dhimaに入学したんです。25歳の頃でした。

dhimaでの経験は一生の宝物

──dhimaでの学びはいかがでしたか?
思い返すと懐かしいですね。丁度『スター・ウォーズ エピソード1』と『マトリックス』が公開された時で、その頃VFX全盛期で様々な新作映画に興奮していたことを思い出しました。

東京のデザイン会社で3年間、3DCG制作のプロとして仕事をしていたので、dhimaではスキルの習得というよりは、新しく学んだことを活かして自分の作品づくりに注力していました。

──dhimaに入ってよかったと思うことは?
似た志を持つ同級生との出会いですね。入学半年後にはグループプロジェクトが始まったので、彼らと同じ目標に向かって切磋琢磨しつつ、お互いにいい刺激、影響を与えあって毎日夜中まで一緒に作品を作っていました。そんな日々と経験のすべてが僕の一生涯の宝物で、現在の仕事に活きています。もちろん、今でもお付き合いしている人もたくさんいるんですよ。

──仲間たちと作ったのはどのような作品だったのですか?
元々目指していたのは、CGを駆使して好きなアーティストのMVを作る監督だったので、MVを作っていました。仲間と作品を作る楽しい日々はあっという間に過ぎ去り、卒業の日を迎えました。しかし1年間ではとても時間が足りなくて、卒業後もLAで就職活動をしながら、僕の家で仲間と一緒にひたすらCGの作品を作り続けていました。

監督を目指し日本のアニメーションスタジオに就職

でも就職活動は作品づくりのようにはうまくいきませんでした。当時のハリウッドはほとんどのプロダクションが完全分業制だったので、募集はスペシャリストばかり。僕はジェネラリストにこだわっていて、できるだけ自分自身で手を動かして画作りもしたいし、監督もしたかったので、ハリウッドの制作システムとは相性がよくないと感じていました。でもアメリカで働きたかったので、スペシャリストでもないのにアニメーターとして応募してモヤモヤしていたのを覚えています。結果は、いくつかのスタジオからオファーはあったものの、納得できるポジションや待遇ではありませんでした。ですので、就職するのはやめて、最後にもう1本作品を自分で作りきって、その結果次第でアメリカに残るか、日本に帰るかを決めることにしたんです。最後にトゥーンシェーダーでアニメ寄りの3DCG作品が完成したので、西海岸と日本のプロダクションにデモリールを送りました。

すると、日本のアニメーションスタジオからオファーをもらったので、帰国して入社することに決めました。理由は二つ。一つは、そのプロダクションはハイクオリティの劇場アニメーションを製作していたこと。二つ目は、最終目標であるMVの監督になるには、アニメーターやモデラーとしてアメリカのプロダクションに入るより、日本のプロダクションで修行を積んだ方が早いんじゃないかなと薄々感じていたからです。

──プロダクションに入ってからはいかがでしたか?
まさに修行の日々でした。毎日朝から終電まで、すごい集中力でショットを作りまくりました。周りの同僚も優秀な人が多く、我こそはいいショット作るぞ、我こそは監督になるぞという雰囲気で、お互い刺激し合える現場でした。そこでご一緒した監督やアニメーターたちとの仕事が糧になり今があると思いますし、やはりここでも同志と出会いは人生でも大きな影響を受けてると思います。入社以来約6年間、数本の劇場アニメーションに参加し、修行を終えました。

退社後はフリーランスのCGディレクターとして1年半ほど活動した後、2009年にチームラボに入りました。

代表に口説かれチームラボに入社

──チームラボに入社した経緯は?
最初のきっかけは、たまたま友人が編集した雑誌でチームラボの作品の紹介されてる小さい記事を読んだことです。その頃まだアートの映像作品は少なかった頃でそれを読んで「この作品、日本画でCGで作ってるんだおもしろそうだな」と思ってネットで調べたら、会社の所在地が自宅の近くだったこともあり、フリーランスとして何かおもしろい3DCGの仕事をやらせてもらえないかなと思ってデモリールを送りました。つまり、最初は入社するつもりはなく、営業でコンタクトを取ったわけです。

すると数週間後にチームラボから面接したいという返信が来ました。担当者にデモリールを見せてこれまでやってきたことをひと通り話し、CGで何でも作れますよ!って伝えたんです(笑)。すると、後日また来てほしいと。2回目の面接に行った時、大きなミーティングスペースにある一つのテーブルに代表の猪子寿之が座っていました。でもそこで面接が始まったわけではなく、猪子さんから「映像の人でしょう? コーヒー飲みたいから外で話そうよ」って言われて、近くの喫茶店に行って4、5時間、話しました。面接というか雑談ですね(笑)。それが猪子さんとの最初の出会いでした。


そんな面接を1ヶ月で3回ほどやったのですが、その間、猪子さんから「フリーランスとしてじゃなくて、社員としてチームラボに入ってくれ」って言われ続けました。ずっと断っていたんですが、3回目の面接で「まぁ1年くらいだったらいいか」と思って、2009年9月、チームラボに入社したわけです。

──断り続けていたのに入社を決めた理由は?
チームラボの作品に「花と屍」「花紅」と「美の壺」という番組のオープニング映像があるんですが、それぞれ日本画と書を3DCGで表現した映像作品なんです。猪子さんはそれらの日本画で作ったCG作品をアートだと言い切りました。当時はメディアアートが先行していた頃で、デジタルのアートはなかったと思います。それをこれからどんどん作ると言っていたので、この人おもしろいなと思いました。それと、ものづくりの最終目標はアートだと思っていたし、チャレンジしてみようと思い、チームラボに入ったんです。

15年間で60以上の作品を手掛ける

──チームラボに入ってどんな仕事をしたのですか?
入る前から猪子さんに「映像制作に関しては自分のチームを作って、好きなようにやってくれ」と言われていたので、私を含めジェネラリスト2名で映像チームをスタートしました。ワークフローを決め、社内の技術者の協力を仰ぎ、仕事ができるようインフラ作りもしました。

入社して最初に手掛けたのは『百年海図巻』。CGディレクターとして参加しました。ディレクターといいつつ、2人のチームですから、自分で手を動かして映像も作っていました。以来、3DCGアニメーター兼ディレクターとして、デジタルアート作品の制作に取り組んできました。担当したアート作品と参加したアート展を合計すると代表的なものだけでも60以上になるので、年に2つ3つくらいはリリースしてことになり、かなり忙しい日々でした。今もそうですが(笑)。加えて、舞台やライブ、広告、アプリのコンテンツなどさまざまなクリエイティブにもディレクターとして携わってきました。

並行して3DCGアニメーションチームのチームリーダーとしてチーム作りをしてきました。メンバーは徐々に増えて、現在は20名の個性豊かなジェネラリストのアニメーターが在籍し、最高のチームになっています。

チームラボでチームとして働ける幸せ

──最初は1年のつもりだったのが15年にまで伸びた理由は?
チームラボに入った当初の作品は複数台モニターやプロジェクターで会場スペースに合わせて投影し展示してました。今思えばシンプルなインスタレーションでした。少人数チームでアート作品を作ってました。アニメーター、エンジニア、カタリストといった5名くらいのチームです。でもそのうち作品数もスタイルも増えて関わる人も増えてきました。アート作品の為に空間そのものを作るようになり、今ではチームラボボーダレスのような大規模なミュージアムを作るまでになったのです。こんなことができるようになるとは、チームラボに入って最初の数年は想像すらしていませんでした。

ここまでのことが実現できるのは、いろいろなスペシャリストやチームがあるからこそです。空間設計するアーキテクツチーム、その空間に作品をどう投影するかを設計しものすごい数のPCを繋いでネットワークを構築するテクニカルカタリストチームや、ソフトウェアを開発するインタラクティブチーム、センサー周り、機械学習を専門とする画像処理チーム、そして私達CGアニメーションチームがあります。選抜されたスペシャリストたちが集結して一つの作品を作り続けてきました。今やその作品群が境界がない、ボーダレスというひとつの大規模な展覧会になったわけです。

この15年間は、各チームがどんどんレベルアップしてきたから、世界から高く評価されるようなクオリティの高いアート作品を創れるまでになってきたんだと思います。

先日、サウジアラビアにボーダレスを作りに行ったのですが、帰り際に、普段はなかなか話せない別のチームのスタッフと立ち話をしました。私は「今回の設営は過去最高で素晴らしい仕事をしてくれたから、作品の見え方が良くなった」ことを伝えました。彼らのアップデートしたところの説明を聞き感心し、彼も、僕の仕事にリスペクトしてくれました。とても嬉しい気持ちになり同時に「自分の仕事も彼らによって生かされてるんだな」「一人ひとりの努力の結晶が素晴らしい展示になったな」と実感できた瞬間でした。みんなで同じゴールに向かって、好きなことに一生懸命取り組んでいる現場で働けるってすごく幸せだと思えた瞬間でした。

また、経験を重ね、作品のクオリティがどんどん高くなるにつれて、自分たちの実力も上がり、プロのものづくりのチームとしてもレベルアップしてきました。これまでなかったものを作るということは周りに真似する例がないということなので時に大きな困難をともないますが、自分たちで少しずつ積み重ねることによって、現在のような形にできたと思います。これもすごく幸せなことですよね。

チームラボのプロジェクトには常に新しいことへの挑戦が含まれていたんだと思います。毎回それを達成して良かったな思うことが続いていくから、いつの間にか15年という歳月が経っていたのかもしれませません。

人生をかけてアートをやり切りたい

──どのような思いで今の仕事に取り組んでいますか?
チームラボの作品は日本画をモチーフにしているものが多いのですが、その日本画のモチーフは自然の美しさで、さらにその元にあるのは作り手の体験や記憶です。先輩方はそうやって何百年という長い年月をかけて日本画の歴史を紡いできました。そのアートの歴史に我々も自分達のもっている技術で続いていかなければならないという使命感で作品を作っています。僕も先人たちが紡いできた長いアートの歴史に続いて、その一部を作りたい。それが仕事に込めている一番強い思いです。先人たちが築き上げてきた何百年と続く長いアートの歴史を受け継いで、そのバトンをまた次の世代に渡す。それができたら、アートをやり切ったと言えると思うんです。

その思いが現れているのが、4年かけて作った『生命は生命の力で生きているⅡ』です。そのモチーフは花鳥風月で、日々の生活で自然や四季に対して感じたことを作品に込めています。解像度は8Kで60分1カットで四季を表現しました。自然が移ろいゆく姿は、デジタルの掛け軸だからこそ表現が可能になりました。その昔江戸の絵師、伊藤若冲は西洋から手に入れたプルシアンブルーを使い日本画には見れない斬新な表現をしました。絵師の画材がアップデートするかのように、現代アーティストはソフトウェアとハードウェアが物凄いスピードで進化していくのでそれに合わせて自分たちのものづくりもアップデートしてきたからこそ、この作品を完成させることができました。

──これまでのクリエイター人生の中で困難や失敗もあったと思いますが、どのように乗り越えてきましたか?
これまでの人生を振り返ると、アートを志して仕事を始めてから30年ほど経っているんですが、始めの半分くらいは本当にしんどかったですね。今、もう一回最初からやれと言われたら絶対に嫌です。それだけつらいことの方が多かった気がします。

それでも続けてこられたのは目標とその時々で成長実感があったから。そして常に同志がいたことが大きいですね。dhima時代、アニメを作ってた頃も、そして今も人と、ものつくりを共に切磋琢磨したからこそ、挫けそうになった時でも乗り越えられたと思います。

チームラボでのプロジェクトは常に新しいことのチャレンジだったので困難がつきものでした。その度に覚悟しています。困難を毎回乗り越えているから、作品や自分自身も進歩・成長していると実感できてきたんです。

エンタメを拡張してきた

──デジタルハリウッドの現在のスローガン「すべてをエンタテインメントにせよ!」をどう捉えていますか?
物心ついたときからエンタテインメントが大好きで、たくさんの作品を見て刺激を受け成長して、自らそれを作る道を選び、長年歩んできました。その道のりで、ほんの少しかもしれませんが、これまで世の中になかった新しい物を提供できたかもしれないと思っています。

これまでたくさんのエンタメ作品を作ってきましたが、チームラボに入ってからは、画面の中だけで収まった仕事の方が圧倒的に少ないんです。例えば、フィギュアスケートで空間の演出を担当した時は、舞台上のスクリーンにとどまらずスケートリンク全面とその周辺の観客席にもプロジェクションし、会場全体で演出するようなプロジェクトを手がけてきました。そういった表現ができるチームと一緒に仕事をすることで、自分の発想も拡張されたというか、想像が解き放たれて、より大きな表現力で作品を作り出すことができました。チームラボは常にエンタメを拡張してきたと思います。

──今後の展望・目標を教えてください
アートを通して日本文化を世界の人たちに伝えることが僕たちの使命の一つ。そのために、今後予定されている展覧会をより良いものにしていきたいです。きっとそれが未来に繋がり新たな場所に広がるように日々努力を重ねています。

僕自身も一生やり続けなければならない仕事はアートだと思っているので、チームで歴史に残る作品を創っていくのが生涯の目標です。

思いに共鳴したら応募を!

──在校生へのメッセージをお願いします。
僕も過去にやったので言わせて貰うと、とにかく作ってください!(笑) デモリールには習作でなく3DCGアニメーション作品を制作してください!
チームラボに集まっているのは人一倍作ることが好きで、ものづくりに無限の集中力を発揮できる研究熱心な人たちばかりです。その人達が見ていいね!してくれるデモリールを待っています。

我々は今、日本だけではなく、様々な国でミュージアムを作っています。どこかでチームラボの作品を体感して、共感して貰えたら嬉しいです。
そして、自分の表現を共に世界へ届けたい人を探してます。いつでもデモリールを送ってください。通年で募集をしています。

これまで話してきた僕たちの思いや活動への共鳴してもらえたら、全力で夢の道筋のお手伝いをします。

お互い、一緒に仕事してきてよかったねって言えるようなチームを作りましょう!


いかがでしたでしょうか?

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